港区長谷寺の歴史について

トップ サイトマップ お問い合わせ

トップページ > 港区長谷寺 > 長谷寺の歴史

長谷寺(ちょうこくじ)の歴史

かつてこの地には、奈良長谷寺(ならはせでら)のご本尊、十一面観音菩薩と同じ木片、同じ御姿(みすがた)の小さな観音さまをお祀りしたお堂がありました。

長谷寺(ちょうこくじ)外観写真時流れて、徳川家康公江戸開府の折、門庵宗関禅師(もんなんそうかんぜんじ)によりご開山。江戸中期には、奈良・鎌倉長谷寺と並ぶ大観音さまを造立。
古仏は尊像の体内にお納めし、江戸観音霊場第22番札所として尊崇(そんすう)を集めました。

長谷寺は幾多の災禍と艱難(かんなん)を超え、寺観再建が成った今、宗門の専門僧堂として、また、観音信仰の聖地として、現世利益が満ち溢れています。

十一面観音菩薩かつて<渋谷が原>と呼ばれたこの地には、古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺(ならはせでら)の観音さまと同じ木片で造られたという、小さな観音さまが祀られ人々に親しまれていました。
時流れて徳川家康公江戸開府(かいふ)の後、この観音堂を基(もと)に補陀山(ほださん)長谷寺(ちょうこくじ)開山。
家康公の幼馴染みでもあった高僧、門庵宗関禅師(もんなんそうかんぜんじ)をご開山に、二万余坪の寺領(じりょう)を賜ったと伝えられます。
近年、戦火で焼失した大観音の再建を願う人々の根強い信仰により、高さ三丈三尺、壮麗無比(そうれいむひ)の御姿がよみがえりました。
幾多(いくた)の災禍(さいか)を越え、寺観再建が成った今、長谷寺(ちょうこくじ)は現代に生きる観音霊場(かんのんれいじょう)として、 また、宗門の専門僧堂として、人々の尊崇(そんすう)を集め続けています。

奈良長谷寺(はせでら)開山、徳道上人(とくどうしょうにん)作と伝える一木三體(いちぼくさんたい)の観音像。
縁あって、内一體(うちいったい)が渋谷(しぶや)が原(はら)に祀(まつ)られることとなった。


今は昔、大和国(やまとのくに)の長谷川(はつせがわ)の辺(ほとり)に
壱百余年(ひゃくよねん)が間、曳き棄て(ひきすて)られし大きなる木あり。
此(こ)れにより病流行(やまいはや)れるなりとて、傍(かたわ)らに寄(よ)る者無し。
其の時、僧あり。名を徳道(とくどう)と云う。
「我、十一面観音像を造り奉(たてまつ)らん」と、
哭々(なくなく)此の木に礼拝(らいはい)すること七、八年。
噂を聞こし召して、元正帝(げんしょうてい)、亦(また)、藤原房前大臣(ふじわらのふささきのおとど)の
御力(おんちから)を賜(たまわ)りて、神亀(じんき)四年(727年)、
高さ二丈六尺(にじょうろくしゃく)の十一面観音像を造り給(たま)えり――。
「今昔物語集」巻第十一「徳道聖人始建長谷寺語第三十一」より

長谷寺(ちょうこくじ)縁起 また、ある言伝えによれば、このとき徳道上人は樟(くすのき)の霊木(りょうもく)で、三體(さんたい)の十一面観音像を造り上げた。
大観音を二體、そして四寸余の小像を一體。
一體は奈良初瀬山(はつせのやま)の長谷寺(はせでら)に、一體は鎌倉観音山(かんのんやま)の長谷寺(はせでら)に、縁あって小像は渋谷が原に祀(まつ)られた。
後の世、補陀山(ほださん)長谷寺(ちょうこくじ)本尊となる尊像である。

渋谷が原観音堂(はらかんのんどう)から補陀山(ほださん) 長谷寺(ちょうこくじ)へ。
観音の慈悲を信じ御家再興(おいえさいこう)に賭けた、一人の武将がいた。
山口重政公(やまぐちしげまさこう)。彼なくして長谷寺の創建はなかった。


常陸国牛久藩(ひたちのくにうしくはん)一万余石、初代藩主山口修理亮重政公(やまぐちしゅうりのすけしげまさこう)。
天正(てんしょう)十九年(1591年)、従前(じゅうぜん)の忠義(ちゅうぎ)を讃えられ、覇府(はふ)江戸へと昇(のぼ)る。
下屋敷拝領(しもやしきはいりょう)の地は、渋谷が原。
謂(いわ)れ古き観音を祀る浄地(じょうち)であった。
慶長(けいちょう)三年(1598年)、渋谷が原観音堂を基(もとい)に補陀山(ほださん) 長谷寺(ちょうこくじ)を建立、自らの菩提寺(ぼだいじ)とする。
開山禅師(かいざんぜんじ)は、後の大中寺十二世門庵宗関師(もんなんそうかんし)。
観音信仰篤(あつき)き慈母(じぼ)の名を開基(かいき)に標(しる)した。
この後重政公は、跳龍(ちょうりゅう)のごとき勢いで大番頭(おおばんがしら)に上り詰めるが、故(ゆえ)あって家康公の逆鱗(げきりん)にふれることとなる。
髻(もとどり)を切り、越生龍隠寺(おごせりゅうおんじ)に蟄居(ちっきょ)。
宗愚と号した。
端坐(たんざ)すること二年余、御家再興(おいえさいこう)を期して立ち上がる。
元和(げんな)元年(1615年)大阪夏の陣。
修羅(しゅら)のごとき執念で、身命(しんみょう)を擲(なげう)ち先陣に立った。
息子を失い、血の泪(なみだ)を流し軍功(ぐんこう)を樹(た)てる。
十数年後、重政公の念が叶い、長谷寺(ちょうこくじ)と、古跡竜雲院(こせきりゅううんいん)(大中寺末寺)との合寺(ごうじ)成る。
ここに、観音信仰と曹洞宗の伝統が融合し新たな命脈(めいみゃく)が生まれた。
私的な小寺から、格式権威ある公の大寺へ宗門を統べる関三刹(かんさんせつ) 大中寺との縁(えにし)により寺勢(じせい)いや増す。
重政公七十二歳で寂(じゃく)すまで、亡き慈母と息子の追善(ついぜん)に尽くした。
長谷寺(ちょうこくじ)山口重政公
長谷寺(ちょうこくじ)山口重政公